魔法にかけられて

クリームソーダには夢と希望と愛が詰まっています

夢のような思い出を数えても 消えていく炎

これから、人が亡くなるとかの話をします。
書くようなことじゃないんだろうけど書くことで自分の心が少しでも晴れればいいなと思って、書こうと思いました。興味が無い方がほとんどだと思いますが、どうか許してね。

 

 

2019年12月18日になってすぐのあたり、大好きな大好きな母が亡くなりました。

2017年の秋に手術をして、そこから2年3ヶ月の闘病生活の末、最後は眠るように逝きました。
癌で手術し、リンパに転移も認められたため術後の化学療法も休むことなくずっと頑張っていましたが、その頑張りも虚しく昨年の夏頃に肝転移がわかり、ステージⅣの宣告を受けました。
2019年の10月中旬頃から食欲不振と全身倦怠感が強くなり、入院生活を送るようになりましたが、本人はすぐに退院して家に帰る気満々、大好きなお花のことと、畑の野菜たちの秋の収穫を楽しみにしていました。結局は一時退院も外出も叶わず、入院してからずっとずっと言っていた愛犬(黒柴 11歳♂名前はうに)に会いたい、という希望も叶わずでしたが、最後まで私たちには「苦しい」とか「(癌性疼痛で)痛い」などひとことも言わず、面会に行くといつも笑顔で迎えてくれ、帰る時はバイバイ気をつけてね、と笑顔で手を振ってくれました。腹膜播種から癌性腹膜炎、癌性胸膜炎になり、全身の浮腫はもちろん腹水も胸水もどんどん溜まりはじめて、抜いても抜いてもすぐ溜まるようないたちごっこ。ドレーンが胸と腹部に留置されても身体しんどいだろうにひとことも苦しいとかは言わず…。ドレーンが刺さってるところはチクチク痛いと言ってましたが、それ以上のことは言わず。我慢強いのか、鈍感なのか(笑)、それとも私に心配をかけるまいと強がっていたのか、それは本人しかわからないけどね。本人は全身状態が良くなったら抗がん剤をして、病気とどこまでも闘っていくつもりでいたみたいです。ポジティブな母だね。祐也さんみたいだね。さすが手越担の母だね。(どこまでも考え方がジャニヲタ)

 

12/14から1泊で東京(KinKiさんのライブ目当て)に行ってきまして、旅行中は母とメールをしつつ過ごしてて。ちなみに14日の朝は「おはよー」と返ってきました、さすが私の母、陽気です。この土日はいつもよりご飯も食べられていたみたい。そんな情報も姉たちから聞きつつ安心して東京を満喫してきました。

 

16日のお昼前に面会に行った時もいつもと変わらない笑顔で「おかえり」と言ってくれて、東京の話したりお土産渡したり、KinKiさんの話しながら爪切ったりして過ごしてましたけど、なんとなくボンヤリしてるかなぁ、って思ってて。眠いのかな、寝ぼけてるのかな、なんて。あ、そういえば姉たちから「日曜日から痛み止め変わったみたいよ」って聞いてたな、何の薬になったんだろう、って疑問に思って看護師さんに聞いてみたら内服のオピオイド(麻薬)になってて。『え?土曜日まで頓服のカロナールだったじゃん、なんでいきなりオピオイド?』と疑問に思いましたがいつも私たちに訴えるドレーンの刺入部の痛みは抑えられているようだったし、ボンヤリしているのもそのせいだな、と納得して。姉たちにそれを伝えつつ、家に戻ったんですけどね。
姉②がその日の夕ご飯のあたりに面会に行ったらもはや話が噛み合わなくなってて、バタバタ個室移動して「苦しそうだから」と点滴で痛み止め(麻薬)が入って。そこから家族みんなで集まって娘たち3人でムンテラ受けて覚悟しておいたほうがいい、と言われてみんな泣いた。ちょっと前の胸のレントゲン写真見せてもらったらもう真っ白けで。だいぶ苦しくて辛かっただろうに、この人私たちには何も言わなかったんだなって思ってまた泣けてきた。
16日の夜は姉②が付き添い無事に特変なく過ごし、17日も朝からずっと姉たちと交代しつつ付き添って、その日の夜はお休みだったこともあり、私が付き添うことになって。胸水や腹水が刺入部からも漏れてきてて、汚れた肌着や病衣を交換したり、清拭したり手浴したり、ニベア塗りたくったり、準夜帯なんてアホみたいに忙しいだろうに、看護師さんは一緒にやらせてくれて。その日の夜は久しぶりに隣で、しかも子どもの時みたいにちょっと手を繋いで寝たりなんかして。
日付が変わる前から呼吸の仕方が変わってきたので姉たちと父を呼ぶように言われ、でも最後まで話しかけたら反応もあって。

今までたくさん頑張ってきたのでDNRということで家族の意見は一致していました。
最後は家族みんなで母を囲んで、看取ることができました。
苦しんだ時間は少なかったのではないかな、と思います。ちなみにいちばん反応したのは『うにがね、今日こんなことしてたよ』という愛犬の話でした。会いたかったよね、うにといっぱい遊んで散歩に行って、いつもうにと一緒に寝てたもんね。

母の希望で病気をしたことは私たち家族しか知らず。親戚にはもちろん、ご近所さんにも一切言いませんでした。弔問に来ていただいた時にお伝えしました。このことで親戚の年寄りたちには遠まわしに嫌味を言われたりもしたし、まるで私たち家族が悪者のように言われたりもしました。(そういう人たちだから言いたくないんだよ、そういうところが大っ嫌…いやいや苦手なんだよ(毒))さすがにイラっときたので年寄りたちに向かって言い返してやりましたけど。こういうところが私のよくないところです。笑

 

さすが私の母だなと思ったのが、私をちゃんとKinKi Kidsのライブに行かせてくれたというところ。しきりに『キンキキッズ行くのいつだっけ?』と聞いていたのはそのせいだったのかな。入院前も何回も聞く人だったから(元から覚える気がない母だった。笑)そんなに気にしてなかったけど。
ちなみに母との最後のちゃんとした会話(挨拶はのぞく)は「キンキキッズってかっこいいよねー」「うん、かっこよかったよー」「歌もうまいよねー」みたいなキンキキッズの話でした。
ジャニーさんと同じ年に亡くなるとかも、なんていうかさ…。
空の上でジャニーさんに会ったら、ライブ当ててくれって頼んでおいて、ってお願いしておこ…(発想がジャニヲタ)

たぶんまだまだまだまだ天に着かずにどっかでアイスとかかぼちゃのプリンとかクリームソーダとか食べてると思うから、STORYに間に合うように天に行って欲しいもんです(発想がどこまでもジャニヲタ)

 

一応わたしはなんちゃってでも看護師なので、
癌、ステージⅣ、肝転移、腹膜播種、腹水、胸水、全身の浮腫、などの情報があると悪い方にしか考えることができず、いろいろと経過を想像してしまって。
ただ母本人と私以外の家族は元気になって退院するんだ!としか思ってなかったからそんなこと言えるわけないじゃないですか…。尿量も減ってきてたのもあって、そろそろなのかな、なんてほんのり思ったりもしてたけど言えるわけないじゃないですか…。なんとなくでも、なんちゃって看護師でも、経過がわかるのって、辛い。ひとりでこの気持ちを消化するのが辛くて辛くて何度もひとりで泣いたりしてね。私は弱い人間だ。

 

母が自宅に帰ってきてからは本当に忙しい日々が待ち構えていて、怒涛のように時間が過ぎていって。でもそんな中でも母が寝てる布団にズカズカとあがって隣に寝てみたり(こら)、手を繋いでみたり、顔をベタベタ触ってみたり。病院で手を繋いで寝た時はあったかくてほんのすこしだけど握り返してくれた手も、その時は冷たくて握り返してもくれなくて、またボロボロ泣けてきたり。
編み物と裁縫が得意で、料理と食べることが大好きな母。抗がん剤で髪が薄くなった頭を隠すために作ったお気に入りの手編みのどんぐり帽子をかぶり、入院中に編んでいたであろう未完成の帽子とその毛糸、木の編み針と大好きないろんな食べ物を書いた紙、ずっと床頭台に置いてあったうにの写真を棺の中に入れて、大好きなたくさんの綺麗なお花に囲まれて、旅立ちました。
斎場での最後のお別れの時は私たち姉妹らしく、「またね、ばいばい!」と3人そろって笑顔で棺の窓を閉めました。いつも笑ってた母だったから、最後は私達も笑って送ってあげたかったんです。そのあと3人して泣いたけど。
今ごろなにしてるかな。うにの写真見ながら編み物してるかな。たくさん寄り道していろんなおうちの花を眺めたり、アイス(お気に入りはサーティワンのバニラとマスクメロン。高級。)食べてるかな。
娘としては早くジャニーさんに会っていろいろとお願いしてほしいんだけどな。

2019年終わるところですが、間違いなく1番泣いた1週間になり、キンキさんに行く前につけたマツエクがほぼ取れました(笑)


この忙しさが落ち着いたころ、どっと寂しくなるんだろうなぁ。もっと話したいこと、聞きたいこと、教えてもらいたいこと、たくさんたくさんたくさんあったな。親孝行したいと思った時に親はいないって話、本当だった。もう話できないんだなあって思うとすごくすごく寂しい。でもうちの母のことだからいつまでもメソメソしてほしくないって思ってるだろうな。でも寂しいな。


そして!!!
このタイミングで!スマホが!壊れたんですよ!!!!!!まったく!タイミングが悪い!!!!!軽率に新しいiPhoneを買うことにしたので、今は車に繋いでた壊れかけのiPhoneSIMカード入れて使ってます。フル充電してもネット見てたら1時間くらいで電源落ちるやつ。

早く新しいiPhone来ないかな〜〜〜〜

 

そして
早くNEWSに会いたいな〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

心のままに書きました、文章オカシイネ!ゴメンネ!